どうしても話し合えない人との話し合い(一般市民と裁判所)

今年もお盆の季節となりました。
「もう8月かぁ~」の思いがこみ上げて来ます。
思わぬ出来事で悩みだして、この秋で早2年となります。

そもそもは、自分ちの駐車場に止めていた車のドアをぶつけられて、傷をつけられた。

こちらは事を荒立てたくないので、怒りを表すことなく、修理代金のお願いをしました。
「すいません」「いえいえ、事故ですからね」とこういったやりとりで解決するかと思い
きや、

相手は弁護士を送り込んで来て、当該修理代金の話をすることなく、当方が驚くことを
要求し出し、支払いは拒むといった事態になりました。

皆さんは、「台風の風でおたくの自転車が飛んで来て、うちの車にぶつかったのでそれと
相殺で払えません」と言われて、承服できますか。

しかもどこの傷か、修理金額を見せられることもなくですよ。
さらにしかもそれを相手の弁護士が言って来る。

「事実は小説より奇なり」どころじゃないオンパレードでした。

結局、当方も弁護士を立てて、双方弁護士を通じての話し合いの協議になりましたが、
相手は(当方としては受け容れられない)勝手な理屈を主張するのみ。
到底、合意に至らず、当方より民事訴訟を申し立てることとなりました。

裁判所よりの和解要請もあり、和解交渉を進めましたが、これも到底、合意に至らず。
判決を求めることとなりました。

そして、当方の主張を認める判決(修理代金の全額と遅延損害金の支払いを命ず)を
いただきました。これが、1年前。

これで終わると思いきや、またまた当方が容認できない事柄を巻き起こし、今度は民事調停を
申し入れざるを得ないこととなりました。本件は現在係争中で詳細は明らかにはできませんが、
とある県条例に関することの違反疑義状態の是正をめぐってと、ここではさせてもらいます。

見解の相違からくるもめごとは、当事者同士の話し合いで解決するのがまずは第一です。

ところが、どうやっても話し合えない人というのが現実にはいる。そこで、代理人たる弁護士
の登場となります。もう法律的にどうだという話にしかできないのです。

知識としては知ってはいても、この社会にどうして法律があるのか、裁判所というのがあるのか。
弁護士という職業があるのかをめちゃくちゃ痛みを伴いながら学ばせてもらっています。

また、法律の解釈にも様々なことがあるということも学びました。

昨年は民事訴訟。私も法廷に立ち、尋問を受けました。今年は、民事調停。裁判所にこういう
解決システムがあることを知りました。

また、一般市民にとってはとてもつらいこと。
裁判は大きな費用と手間、時間がかかるということも骨の髄まで実感させられました。

かと言って、自らの人生で、どうあっても泣き寝入りできないことがあります。
たとえ、痛みを伴っても、立ち向かわないといけないことがあるのです。

「人生、無駄なし」という言葉を自分に言い聞かせながら、解決に向けての日々が続いております。

この駄文が悩めるどなたかのほんの一助になればと書かせてもらいました。

感情的なことは極力控えて書いたつもりです。それもこの2年間の体験の中で学んだことです。
悪感情をぶちまけての主張は事態を悪くするだけです。主張は冷静かつ論理的にです。

なんだかんだ言っても、話し合いで解決できそうな事柄を抱えている貴方。
「それは、当たり前のようでラッキーですよ!」

「コンプライアンス」とよく言われる世の中になって来ましたが、これも、実は、そう難しく
考える必要はなく、要はお互いがお互いを思いやることなのです。

一般市民にも必要な意識ですね。人は一人で生きているのではないのです。
こんなことを実感として持てるようになったのは収穫と言えるかもしれません。
(ちょっと無理やりですが)

最後に一言アドバイス。
お願いする弁護士さんをミスると、事態はとことん悪くなっていきます。
私はその辺はまだ幸運でした。
貴方のネットワークに信頼できる弁護士さんを加えておかれますように。
絶対無いとは限らない「まさかの坂」に備えて。